東日本大震災 災害ボランティア活動報告 VOL.2(5月23日~27日)
静岡県作業所連合会・わ
東日本大震災 災害ボランティア活動報告 (5 月23日~27 日)
社会福祉法人ひかりの園 浜松協働学舎 青葉の家
生活支援員 岸本勇気
今回被災地派遣で岩手県盛岡市の「被災地障がい者支援センターいわて」(以下センター)で活動させて頂きました。現地での支援や活動についてまとめ、報告致します。
活動内容は岩手県沿岸部においての①物資の搬入、②各市町村の役場、避難所・仮設住宅の情報収集、③個別支援です。センターの主な概略・支援方法は吉岡・吉田と同様であり割愛致します。
①物資の搬入
① 私の物資搬入支援は2件。
1件は釜石市在住の御家族。元々母子家庭。支援者本人は両上下肢機能障がい。また本人兄(健常者)の子供二人もアスペルガー機能障がい、知的障がいを持っておられている。幸いにも家族は全員健在。現地で物資調達ができず、また避難所から在宅であるという理由から支援は受け取れない状況。
本人や兄弟の夏の衣服、食事、身体的理由から水分のとろみをつけるものを運ぶ。兄弟の見守り、介助等の支援は未だ大丈夫と話しを受けていた。
「本当にありがとう」の言葉とうつろな表情をされていた母親の表情がなんともいえず、言葉につまりながら家を後にした。
もう1件は同市の就労・ 支援センターに掃除用具(ほうき・モップ・ちりとり)をお届けする。
補足
センターでは、介護用オムツ・杖・車いす・ゲーム機・三輪自転車など希望に合わせて物資の搬入をしていた。現地ですぐ購入できないものはインターネットを通して購入する事もあった。画一的なものだけでなく、本当に必要なものを把握し柔軟に対応している。被災を受けた方の車が流出したという理由も物資搬入希望となる一つの要因。また、物資の振り分けのシステムが整っておらず、効果的に分けられていない状況。
②各市町村の役場
② 「役所」:釜石市就労・支援センター・大船渡市役所・田野畑村役場
「仮設住居」:赤碕町仮設住宅2箇所、田野畑村仮設住宅1か所。
役所の担当者に仮設住宅において障がいを持っている方、スロープ、手すりの有無を確認。
担当者はそれぞれに現状把握に未だ手一杯で詳細が掴めていない状況。仮設住宅も建築中がほとんどで随時情報が出てくるとの事。しかし障がい者の入居は予定は現段階ではほとんどないと返答あり。
田野畑役場では入所施設3か所にほぼ全員入所し仮設住宅入居はないと断言していた。回った3箇所の仮設住宅も物資の不足、搬入の遅れ完成予定日時延長で建築中であった。
補足
担当者も被災者で元は別の課で急遽応援という形の方もいた。またマスコミや様々な団体からの対応に追われ業務がスムーズに出来ていないといった印象がある。さらにセンターの存在自体があまり認知されておらず、よくわからない団体の質問に、簡単に情報開示していないという点も考えられた。
様々な要因から情報収集に時間がかかる。担当・被災者と顔を合わせ地道に信頼を築く事が今後の「つながり」やまだ手の届いていない支援希望者には不可欠と思う。赤碕町では、まだまだ瓦礫の撤去が手つかず、ようやく飲み水が復旧したと声があった。ただ自衛隊による物資の支援や集落の助け合いでどうにかもっているいう感じを受ける。仮設住宅は高齢者の希望はあるが現段階では障がい者の仮設住宅申し込みは少ない。市も積極的でない印象。ニーズを見つけるにはもうしばらく時間が必要そうであった。
③個別支援
③ 陸前高田市 在宅の80歳男性の支援。
5年前から「脊柱管狭窄症」。手術するが背中、腰にかけ傷みが残る。地震で散乱した家具・家財の整理と気持ちが不安定との理由から支援としては見守りで、近況状況を教えてもらう。
妻は下半身が不自由の為、近くの老人施設へと入所していたが、施設ごと津波で流されてしまった。幸い無事だったが約100キロほど離れた入所施設に移動し、顔を合わせる事も困難になってしまったと。もうなるようにしかならない。年も年だからと顔を合わせずに死んでしまうかもしれないと滔々と語る。
送迎や家・庭の手入れなどできる事はさせていただく、一緒になって生活、心の安定を手伝わせてもらえればと思う。と告げると「ありがたい言葉だけど、また別の人が来るんだよね・・・?」と返答ある。うれしさと困惑の表情が入り混じった様子であった。
補足
被支援者にとって担当がころころ変わる(私で3人目)事は被支援者自身にとっても負担や疲れとなりえる。よって長い目で見た支援はやはり地元や長期に渡って来れる人物になり、ボランティアで短期間での支援の限界を感じたのと同時にいち早い地元のサービスにつなげる必要性があった。岩手県全域で元々の福祉サービス数が少ない為、それらも創設していく必要がある。
以前からの変化・今後の問題点
- 地道な活動により以前と比べ徐々に認知されてきており、相談件数も増加傾向にある。被災者本人、家族、知人、行政からも情報が上がってきていた。同時に地元のサービスや資源に結びつけられる相談はそれらに移行も着実にできてきている印象。
そうだん件数が増加する一方でそれに答えられる人員の確保も必要であり、今後懸念される点であると言える。 - 事務作業を含めたシステムの構築がほぼ出来上がりつつある。これにより情報の共有もしやすくなっている。
- 相談件数が増え、入れ替わりで新しく入ったボランティアは、(期間によるが)短時間でのその関係性や、概要、全体把握が難しくなるのでは思われる。
- 遠野市にある新拠点を確保し、移動による負担の軽減をしているが、沿岸部で比較的震災の影響が少ない所にも拠点を作る事ができれば、支援できる数も増加するのではないかと思われた。
最後に・・・
ボランティアという形においては、支援者自身が何かをするというよりも何かに、どこかに、誰かに、「繋げていく」事が重要だったと思う。また初めの段階で相手にがっかりさせ連絡が途絶える事がないよう全身で聞き、例え短時間であっても可能な限り気持ちに寄り添う事が不可欠であるように思う。
災害ボランティア活動の感想
被災地派遣として岩手県で活動して感じたものや、考えたものを記していきたいと思います。
□岩手・現地の様子
被災地へは浜松から新幹線でおよそ5時間かけ向かいます。新幹線の中からはイメージしている被災地を見る事はありませんでした。それは盛岡についても同様で本当に日常の町があり「本当に被災地?」と思えるほど。物資・ライフラインも何一つ問題ありませんでした。(恐らく岩手全体では6割~7割が既に復興しているのではないかと思います。)被災地障がい者センターいわて(以下センター)から約100キロ離れた被災地には都心部から山を2、3個超えていきますが、近づくにつれパトカー、自衛隊の車両、駐屯所が増えていきます。被災地の市町村へ入ってもまだみえてこない・・・と海に面した道路にでると途端に瓦礫の山、廃墟と化した街に入り込みます。テレビや新聞で見る光景そのまま、崩れた建物、ひっくり返った車、ビル3階・4階に相当する瓦礫、重機、パトカー、立ち尽くす人・・・文字通り言葉がありませんでした。沿岸部を回ると湾内はことごとく壊滅している状態。しかしわずか何メートル高台にある建物は無傷、という所が多くありました。広い所では1キロ~2キロ先まで何もなくなってしまいその地に降り立つと何から手をつけていいのかわからないと感じました。本当に年単位での復興を余議なくされる状態です。
□浜松・自分自身に置き換えて
避難所、仮設住宅に避難した障がい者は多くなかった。多くは施設に避難したか、親戚・知人の所へ身を寄せたのではないかと思われる。非常に忍耐強い県民性や障がいに対する理解度(センター代表者は障がい当事者。代表からは岩手県では外で障がい者をほとんど見かけないとの事。その事から普段からも理解する機会も少なく、理解ももう一つなのではないかと予測される)も影響しているだろう。新聞やテレビでも被災した障がい者や施設・関係者の職員の疲労が限界とされていた。福祉避難所の創設も現段階で機能していたとは言い難い状況であるようだった。
もし、東海地震が起こった場合を想定してみると、まず交通がどれだけ利用できるかが問題。避難所としての協働学舎までこられるかどうか?近くに福祉避難所が創設されていても抱えきれるか?職員・見守りとなる人員を配置できるか?などと色々考えてしまう。もし来られない場合はやはり近隣の避難所へ避難することになるだろう。避難所で本人含め関係者の物理的、精神的な居場所を作れるかがポイントであると思う。
それは本人、家族が住んでいる地域の皆と繋がっている、絆がなければならない。それは震災後に作るのではなく、日常から作り「存在」していれば、自然と震災後にも見知った人が本人を、家族を気にかけ居場所を作る土台となってくれるのではないかと思う。現地を訪れて一番強く感じた事は、「絆」であったり「つながり」がやはり物を言う、大切であるという事。助け合いが出来ていた所は多くの点で(物、心、居場所)がより充足されていたように感じる。
自分の地域に足場がある。見知った人が障がいがあっても、なくても、つながっている。理解している。
理解していける。それは震災の対応だけでなく、ノーマライゼーションにも繋がる事だと思う。
(短縮すると、普段からその地域に理解しあえる仲間がいれば、障がいあっても震災があっても助け合っていけれるのではないか。居場所を自然と作れるのではないか。それが普通になっていくのではないか。)
「震災」という特別な事態を通して、構築できるものがあるかもしれない。その為に自分に出来る事。住んでいる所のつながり、働いている所のつながり、そこに自分も入りまた誰かをつなげていく事。一歩づつ出来たら良いかと思っています。また「浜松協働学舎の職員」より「根洗町の職員」「浜松市の職員」その地域の人という視点に立つ事も大事なのではないかと思います。
地震の為だけでなく、現在・未来の自分、家族、知人、皆の為に。
□被災地に思う事
震災地は想像を絶する状況で、その中で生活をしている人もまた、私の想像を超える揺れ動く気持ちの中過ごしている。現地でも今も正直何を言ったら良いのか?なにができたのだろうという気持ちは強い。
しかし、それでもなんとか今を一生懸命生きている姿に、子供の学校での元気な姿にこんな弱気ではいけないかなと背中を押された気持ちであった。
浜松から岩手(盛岡)まで約650キロ。簡単に行ける距離ではない。現地に行く事もそうないかと思う。
ただ長い長い年月がかかる復興において、ここから何ができるのかを考えていかなくてはならない。長い年月の中で風化させず、「そういえばそんな事あったね」という事なく、細長くても、どのような形でも長く応援できたら良いと思う。
初めて行った東北岩手は綺麗な海と目が覚めるような深い緑の山々が見える、素晴らしい所であった。とても温かい人柄であった。この気持ちを忘れずに紡いで、繋げていきたい。
今回被災地に行かせて頂き、とても良い経験となりました。有難うございました。